プロフィール
1997年生まれ。埼玉県出身。学習院大学 経済学部 経営学科 卒業。
大学1年生の頃より実業家の斉藤徹氏に師事し、Z世代マーケティングをメイン事業とする株式会社dotの創業メンバーに。
2017年秋頃より同団体にて「世界をもっとカラフルに」をテーマにグラフィックレコーダーとして多くのイベントや会議、セミナー等へ参加。今までに描いたグラフィックレコーディングは100回以上に及ぶ。
2022年4月に独立し、グラレコを中心にイラスト・動画・漫画・ホワイトボードアニメーション・キャラクター・デザインなど、グラフィックの力を使ってサービスや商品、場を彩る『グラフィック・クリエイター』として幅広く活動中。
主な仕事として『江戸式マーケ』川上徹也著(文藝春秋)の図解イラスト、テレビ朝日『おるおるオードリー』や東京FM『山崎怜奈の誰かに話したかったこと。』(ダレハナ)でのグラレコなどがある。
プロフィールをご覧いただきありがとうございます。ここから先はすこし長いですが、生い立ちや想いが書いてあります。
コロナ禍もあり、メールやzoom中心のお打ち合わせで作業が進行することが多くなりました。
お会いする機会が少なくなり、場合によってはお顔を知らずにお取引が進んでいくこともあります。
池田がどんな人間かを知っていただき、すこしでもご安心・ご納得いただいたうえでご依頼いただければと思い、わたくし事ではありますが記載させていただきました。
活動理念『アイデアの花を届ける春風に』
花のかおりを届けましょう
綿毛をとおくへ運びましょう
愛を込め タネを植え
信念のもとに 丁寧に育て
花ひらいた その想いを
さわやかな 春風となって
多くの人に届けます
春仲萌絵のいままで
両親の影響で絵を好きになった幼少期
物心ついたときから、絵を描いていました。
幼い私はとっても引っ込み思案で臆病、おまけに運動音痴でしたが、唯一絵にだけは夢中になれたのです。
絵を好きになったきっかけは両親の存在でした。
母はむかし役者をしており、映画や絵画をはじめ沢山の作品に触れさせてくれました。
父はグラフィックデザイナーとしてパッケージや広告のデザインをしている人です。
趣味で油絵や鉛筆画も描いていました。
ベランダにふたりで座り込んで景色をスケッチしながら、色鉛筆のきれいな塗り方を教えてくれたのを覚えています。
家族をはじめ、保育園の先生や友達に絵をほめてもらえたことがとてもうれしく、幼い私なりに誇っていました。
将来の夢は「画家になる」「ピカソになる」でした(笑)

ずっとずっと絵が一番のコミュニケーション手段だった
小学校にあがった時のことです。保育園のころの友達とも一人も一緒のクラスになれず、なかなかまわりの子にも話しかけられない。
担任の先生に「外に遊びに行きなさい!」と怒られながらも、休み時間にひとりで自由帳に絵やマンガを描いていました。
するとそのうち、ひとりふたりと
「ねえねえこの続きどうなるの?」
「これ誰かいてるの?」
と興味を持ってくれる子が私の机の周りに集まるようになりました。
そして気づけば、私が絵を描いているとまわりには5、6人の子が集まっているようになり、
私はひとりではなくなりました。
中学や高校に行っても絵を描くことで役立てたり喜んでもらえることが多く幸せでした。
修学旅行のパンフレットの表紙を描かせてもらったことも。
300人弱の仲間がみんな私の絵の入った冊子を持っているのがうれしく、そして誇らしかったです。
絵は親友も作ってくれました。
それまでクラスが一緒になったことがなく、直接話したことはないけれど、「絵の上手な子」と知ってくれていたのです。
お互いを「腹心の友」と呼び合うような仲になり、その子は現在アナウンサーとして活躍しています。
べつの才能とふれあえたのも、私なりに絵を描いてきたからだと思いました。
そして絵は楽しいだけではなく自分と他者をつないでくれる特別なものになっていったのでした。


素晴らしい作品たちに何度も救われる
生きていれば、つらいこと、壁にあたることは絶対にあります。
そしてそんな時、私を救ってくれたのは、マンガやイラスト、絵画、ゲームといった視覚表現でした。
受験勉強で追い詰まり泣いてしまった時。
クラスの人間関係でトラブルがあって明日が憂鬱な夜。
家族とぶつかり自室でうずくまっている時。
どんな時も、ひとたび画集や単行本を開けば、そこはもう別世界になるのです。
そして現実世界へ戻ってくるときにはいつも、ひとかけらの勇気を持たせてくれます。
倉花千夏さん、笠井あゆみさんの優雅なイラスト。山本タカトさんの耽美な日本画。
アルフォンス・ミュシャやライエンデッカーの美麗なポスター画。
話も絵も美しい中村明日美子さんのマンガや、数々の少年ジャンプ作品に救われました。
そうした体験を繰り返し、救うなんておこがましいけど、でもせめて私もいつかはだれかを絵で少しでも助けたいと思うようになったのです。


18歳。美大進学をあきらめ、経営を学ぶ道へ
いよいよ大学受験。そうなった時、私の脳裏には「美術大学」の4文字が並んでいました。
しかし、私はそこへチャレンジをせず、一般大学の経済学部を目指すことにします。
これに関して、周りには
「学費が高くて親に申し訳ないから」
「将来の選択肢を広げておきたいから」
「行きたくなったら社会に出てから自分で稼いで行く」
などと能弁をたれていましたが、本当はとある冬の1日の出来事がきっかけでした。
美大に興味のあった私は、絵のとても上手い友人と一緒に、お茶美の冬季講習に行きました。
そこで、ぶちのめされたのです。
今まで、クラスでずっと1番くらいには絵が上手いと言われ続け、それによってアイデンティティを保ってきた部分もありました。
そこで私は、自分の技術の低さに打ちひしがれました。そこにいた中でビリだったかもしれません。
目の肥えていない状態でも、下から数えた方が早いということは明白でした。
今では、技術はじっくりと身につけていくものであるし、上には上がいるのだから、自分の絵と向き合えばいい。とわかるのですが、当時の私は自分を見失ったかのような感覚になりました。
そして、私は幸か不幸か次の日からウイルス性胃腸炎にかかり、冬季講習をすべて欠席。
その講習に行った友人は、その後もデッサンや油絵に励み、見事現役で美大へ進学しました。
あまりにも対称的で、当時ほど自分がみじめで恥ずかしい気分になったことはありませんでした。
美大を選ばなかった理由を、立派そうな適当な言い訳をつけて言っている私ですが、ほんとうは「自分の才能に自信がなかったから」もっと言うなら、「頑張る覚悟をしなかったから」美大を諦めたのです。

何度も絵に戻ってくる人生
私はとにかく、新しいものや変化することが大大大好きで、よく言えば好奇心旺盛・悪く言えば飽き性。
が、ひとつだけ、これはいつまで経っても魅力に取り憑かれてやめられないことがあります。
それが、絵です。
美しい絵を見て心を震わせること、そして、絵によって誰かが笑顔になるのを見て喜ぶこと。
これだけはどうしても辞めようがありません。
小学3年生の時にパティシエになりたいと言ってみたり、
中2の時にバンドに生きようかしらと決意しかけたり、
高3でもう美術には関わらないで生きていくのだと決めたり、
大4の就活で好きなことを仕事にするのは出来るわけがないと諦めたり。
何度も何度も絵から離れるタイミングがありました。
でも、やっぱり、なにか目に見えない大きな流れによって押し戻されるのです。
そして、腹を括りました。
魂がふるえる仕事・もの・人・ことだけに、残りの人生に捧げる覚悟をしました。
ふたつの名前
自分でつけた名前
『ハルナカ』というのは、高校生の時に自分でつけた名です。
当時、イラストを描いたり写真を撮ったりする部活に入っていて、みんなの作品をあつめた部誌をつくるときにはペンネームで載せるのがお決まりでした。
自分に自分で特別な名前をつけるのは、ちょっとこそばゆいけど、なんだかすごくワクワクすることでした。
尊敬するあるお方のお名前を拝借し、アルファベットをアナグラム(文字を入れ替えて別の単語をつくること)して
『はるなか』という名前をつくりました。
- 尊敬する方の名前をお借りすることで想いを込めたかったから
- 春生まれだから
- 平家物語の木曽義仲がめっちゃ好きで“仲”をお揃いにしたいから
などというのが、ハルナカとした理由です。
母がくれた名前
萌絵という名は本名です。母がつけてくれた名前です。
理由を母に聞いたところ「ずっと“もえ”って響きがかわいいと思ってたから」との答えが。
『萌』ではなく『萌絵』なのは「パパは絵を描くのが得意、ママは絵を見るのが好きだから」
というけっこう安直な理由でした。
まあそんなもんだろうと思っていたら、
小学生の頃にあった“親に自分の名前の由来をきいてみよう”という課題で、
まわりの子はお寺に頼んでいたり字画をとても気にしたりしてつけられていることを知り驚きました。
その課題のクラス発表では、なんとなく見栄えよくするために
半分後付けの理由の「春という新緑の萌ゆる季節に生まれたから。」というのを強調してみたり(笑)
小学生当時、テレビでオタク文化が取り上げられはじめ、メイド喫茶特集のようなのがよく放送されていたので、
男の子から「モエモエキュン~」とからかわれ、自分の名前が恥ずかしくて気に入らない時期もありました。
しかし、絵というものが私の人生で特別なものになる最大のきっかけをつくってくれた尊敬するある方に初めてお会いしたときに「素敵なお名前ですね」と言っていただいた頃から、自分の名前が好きになっていきました。
とくに女性にとって、人生の中で苗字は変わる可能性も大きいですが、名前はずっとずっと自分と一緒です。
「名は体を表すってほんとうだね」と言われるたびに嬉しい。母よ、素敵な名前をありがとう!といつも思っています。
名前をつける、ということ
ちゃんと自分に名前をつけてよかったと思う瞬間があります。
高校時代のある恩師の授業で聞いた話です。
その先生の授業は、わかりやすさもピカイチなのですが、なんというのでしょうか、
心が豊かになるような話や学びをたくさん与えてくださる時間でした。
いつもその先生の授業がとても楽しみでした。
先生のとある現代文の授業でこんなことを教えてもらいました。
【名前は世界を分節する】【名前が無ければ全ては混沌である】という話でした。
簡単にいうと「名前がないと視界にうつってる映像からイスも机もカベも床もあなたも区別できないよね。
はじめから世界にイスが存在してるんじゃなくて、それをイスって名付けてはじめてそれはイスになるんだよね」
みたいなことでした。
私にとって絵はずっと社会や他者との「仲」をつないでくれる存在であったし、
そしてご依頼を受けて描けば想いを届けて「仲」をつなぐお手伝いができるものです。
そう考えると、絵を描く自分を『春仲』(ハルナカ)として世界から切り取ったことは、間違いではありませんでした。